昭和46年04月04日 朝の御理解



 御理解 第36節
 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人にものを頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」

 迷い信心ではいかん、一心と定める。それは、ものの道理がそうでありますように、一つのことを、あの人にも頼み、この人にも頼んでおくということは、いかにも良かろそうにあって、実は、なかなかそれは、本当のおかげにならん。皆が少しずつしか力を出さぬ。本気でその人のために、はまって、一心を出して働いてくれない。神様の場合も、信心の場合も、そのことを教えておられるであろうとこう思いますね。世の中に、信心好きというのがありますね。
 何様でもかに様でも、拝み散らかすという様な感じの人があります。それはね拝むと言う事は、有難い事ですけれどね、頼むと言う事とは違う様な気がしますね。頼むというたら、この方一心でなからなきゃいかん。それは例えば、薮神小神の前を通っても、一礼をする様な心と、教祖様は仰っておられますが、人が合掌して拝むという程しの、仏様であったり、神様であるとするなら、やはり敬虔の念をと言うものは、持たなければならんけれども、頼むというたらこの方一心である。
 そこでこれは、神様とか仏様だけのことではありません。神様にも頼めば人にも頼むというのがありますね。まあ皆さんも色々お伺いをなさいます。例えば人事関係なら人事関係でも雇わせて貰う。そしたらこちらにお願いをする。神様にお願いをしとるけれども、あちらにも頼み、こちらにも頼んどくと言った様な生き方。まるきり神様を無力者扱いにする。神様にお願いしとるのはもう気休めである。
 そして矢張り自分が一生懸命あっち行き、こちらに頼んで回らなければならん。そう言う事は所謂頼むというたらこの方一心である。問題はねですから本当に神様に一心にすがったらです、草木でも芯というたら一つじゃと仰る。その一つじゃと言う所をですね、一心に打ち込んでいかなければならん。神様にお願いをしとると言うだけではでけん。そのおかげの頂ける事のために一心の修行をする。
 まあ例えて申しますと、確かに何かの時でもそうですね。神様に一心にお願いしておる。今度の高校試験の時の事ですね。北野の秋山さんがまぁ一生懸命、本人も勉強しておる。神様にも一心にお縋りをしておる。所が姉婿になる人がその誠治君と言いますけどね、誠治君の姉婿になります人が、学校に心安い人がある。つてがあるというのでしょう。自分からも頼んでやっとくから、受験番号を知らせろと言うて来てる。
 それからお母さんも、姉婿があぁ言ってくれるとじゃから、まあ頼みはせん頼りはせんけれども、手紙で知らせるだけ知らせとかじゃとこう思うた。それを本人にその事を言うたら、もう真っ向から「お母さん、その事だけは止めてくれ」とこう言う。もう自分も子供ながら一心にお縋りしとる。それこそ断食の修行したりまでして、神様にお縋りをしておる。兄さんに頼む事は良いけれども、頼んだから出来たという様な事であっては神様に対しても済まん、自分の自負心が許さない、というのもございます。
 お父さんともなると、それはお前折角言うてくれよるとじゃから、出さじゃこて手紙出すだけで出すとが何が悪いかとまあ言われる。
 この辺のところにね、一つのおかげの機微というものが潜んでおると思うですね。もう本当に、一心一向と申しますかね、一つの方に向きを変えたら、そこへ一心を立て貫いて行く。そういう例えば生き方。ところが何とはなしに、神様へ頼んどるけれども、心許ない。で神様には内緒であちらにも頼み、こちらにも頼みしておる人がある。だからそういうところをね、例えば足りないところは足りないところを。
 自分がね神様にお詫びさして頂いて、内緒にするといった様なことではなくてです、真正面から、神様に一心にお願いするところもそうですけども、神様に一心にお願いをして、誰にも頼みます、ここにも頼んでおりますと言や、まだ良いですね。そのこと自体もまた、神様の働きとしてと頂くという頂き方がある。けれども神様には内緒、いわゆる親先生には内緒で、あちらにも頼みこちらにも頼みしておる。
 よしそれはほんなら、自分の思うようになったとしてもです、いわゆる神様を信じて行けば、このようなおかげが生まれるというか、この様に安心の生活が出来るというようなおかげにはなって行かんこれでは。この辺のところを結局分からせて貰う。一心と言うたらもう草木でも、芯と言うたら一つじゃ神信心の、この一心を足すとすぐおかげが受けられる。と言うてほんなら他には誰も頼まん。拝みもせん。
 もう合楽の金光様一本だと。成程一心一つの心になっておる。一心というものは一つの心と言うことじゃない。一心を立てればどげなこっでん出来ると言う事を申しますでしょう。それこそ夜もなければ夜中もない。暑いも寒いも感じない。もう何年も前の話ですけれども、土居の方達がお参りしてくるのに、筑後川を島浦を渡って参ってくれば近いんです。もうそれは昼でも気持ちが悪いよとこう言う。
 そこをやはりザブザブ渡って筑後川渡ってですね、お参りして来られたもんです。久富繁雄さんの奥さんなんかは非常に大体臆病で、暗いとこで一人で行ききらんち言うくらいな。私が一心を立てればもう恐いもなからなければ、恐ろしいもない寒いも冷たいもない。ただ心を当時、椛目ですね、椛目の金光様に向け切っておる。だから一心と言うここで言うておられるのは、そういう意味があるのです。
 どこにも頼まんここにも頼まん。そして一心を立てないとするなら、それは少し実意を欠いた、いわば横着ないわゆる、わがままな信心と言わなければならないでしょうね。すぐにおかげが受けられると仰る程しの一心とは、勿論一つのこと。もうあなた一心と決めるだけではなくて、そこに一心が立たなければいけん。こらまぁ余談ですけどね。善導寺に久保山さんと言うて、元総代さんがおられました。
 久保山先生所の御親戚の方なんですけれどね、あちらの先代が大変、もう医者も見放す程しの病気、大病にかかられました。それから金光様を聞かれて、久留米に当時、久留米の石橋先生のところに熱心にお参りになった。そしたらねある夜ご主人がお夢を頂かれた。自分の休んでおられる枕元に、一匹のね真っ白い馬がおる訳です。そして馬がじっと前に座って、前脚でね屈んで病人の頭を、こう挾んで動かんように馬がね。
 そして口から、何かよだれのようなものを、タラタラタラっと、丁度病人が休んでおる口の中に垂らし込む夢を頂かれた。それが実に何とも言えん味がした。それを境におかげ頂いて助かられてあの当時、金光様の久保山か、久保山の金光様かと言われる程しに、一家が熱心になられました。それで久留米教会の総代、三井教会の総代と両方掛けもって総代をなされた、大変な御用も出来られた。
 ところがそれからまた何年も経って、何年ち言うが随分経ってからの事でございましょうが、また大病にかかられた。その時も一心にお願いなさったことに間違いないのですけれども、私はその時の話を、そこの連れ合いであるところのお婆ちゃんですね、から聞かせて頂いたんですけれども、「神様がお受けを下さらん時には、どんなに一心を立てようとしても一心が立たん」と言う事を言われた事を、私は子供心に覚えております。はあそんなもんかなあと思うた。
 もうそれは大祓を上げよるけれども途中から間違う。一心にお願いしよる積りじゃけれども、ちゃんと何時の間にか眠ってしまっておる。さあそれで水を被ってご神前に行ってお願いするけれども、眠気が来たり大祓を間違ったりして、どうしても一心が立たなかったが、やはり神様が受けて下さらなかったと言うて、その病気で亡くなられた訳ですけどもね。そう言うておられます。
 だから私が今日皆さんに分かって頂きたいと言うのは、只あちらにも参らん、こちらにも頼らんと言う事でけでなくてね、一心を立てなければならん。その一心が立つ時にはもう暑いも寒いも感じぬ程しのもの。夜も夜中もない恐いも感じないもの。それ程しの事を私は一心と言うのだと思うです。一心を立てればすぐにおかげが頂かれると仰る。それこそ神様の不思議な不思議な、そういう霊徳な働きとでも申しましょうかね
 神馬が現われて、病人に薬様のものを飲ませたり、それから気分が良くなって、いわば、医者が見放した程の病人が助かると言った様な、これは普通で言うならば、不思議な不思議なおかげという意味です。一心を立てるということはね、そういうことだ。そこで日本国中のあらゆる神を皆信心するという事。だからこれは、世界中のあらゆる神を皆信心するなというがと言うても良いと思うですね。
 先日から何回も聞いて頂いた、親鸞上人様の言葉の中に「良き人の仰せを蒙りて信ずる他に、別に子細なきなり」と言う事、私は例えばキリスト様が教えておられる事の中でも、よく信心した事もないし、お書物を読んだこともないのですけれどもです、教えておられる事の素晴らしい事をです、信ずる他に別に子細はない。ここに良き人と言うておられる事を、先日は師匠法然の事であろうとこう申しました。師匠法然が言われた事を、例えばそれはどう言う事であっても、これは信ずるより他にない。
 是は金光教でも申しますように、御取次願う先生が赤いものをせよと仰っても、はあ白でございますなあと言う様な頂き方、それを信じる事。自分は右が良いと思うけれども、親先生が左と仰るから、親先生が仰るから、と、それを信ずる事。そういう信じ方、そういう生き方。所がこの良き人のと言う事の中にですね、私共の信心を頂いておる先達とか、先輩、それは宗旨宗派の別ない、キリスト教であろうが、仏教であろうがです、私もこの親鸞の言葉を信じます。それ所じゃないと思います。
 例えばキリスト様の言葉だってね、「天国が近付けり」と言った様な言葉があるそうです。神様の世界がもう近いのだと言う事を、例えばお道の信心風に言うならば、もういよいよこれ以上の難儀はあるまいと思われるような難儀の中に信心をする。どうぞ助けて頂きたいと願う。そういう時にですどうして自分はこんなに難儀な事であろうかと言うのではなくてもう氏子、おかげは間近だぞと言う事なんです。
 だからそこをそういう頂き方なんです。私はそれを信ずる私も。そのもう天国は近付けり。おかげはもうすぐそば百というおかげを頂くためには、どうしても九十九という所を通らなければ、是は私がいつも言う事。苦肉が重なる程しの所を通って、初めて百になるのだ。だからここん所をですね、それこそ愈々勇猛心というか、元気な心が湧いてこなければならないぞ。是が湧いてこなかったらおかげにならん。
 そこで一心を立てなければならん事が分かるでしょう。暑いもなければ寒さもない。恐いも恐ろしいもない。女の身一つでそれこそ昼でも恐い様な所を、川を渡って所謂当時の椛目、椛目と言うて参って来られた。とても今時あげな所ば渡って通れてん、夜中に参るとじゃけん。とてもああいう事してから参られんち言う事は、如何に今はおかげが受けられんと言う事が分かる。一心が立っておらんと言う事が分かるのです。
 いろんな矢張り道理の上に立っての御理解である。是は人にものを頼んでも、あの人にも頼みゃこの人にも頼む。そして口にはもうあなたにお願いする他はないけんがお願いしますち言うてからそげんとは誰んでん頼む。そげん言うて頼む。それでその人達が何かの拍子にちょっと、私はそこへ直接頼まれとるけんで、あぁあんたにも頼みよるのち。もうそこでちゃんと、一生懸命に世話してやろうという気がなくなってしまう。
 そういう道理もここの中には説いておられます。日本国中のあらゆる神を皆信心するというが、是は拝むと言う事ではない頼むと言う事だ。例えば私はお釈迦様の教えも信ずる。良き人私にとっては良き人である。キリスト様の言われる事でも信ずる。けれども成程そうだとは思うけれども、キリスト様にはお願いはしない。お釈迦様にはお願いしない。頼むのはこの方一心である。生神金光大神以外にはない。
 そして自分の一心を確かめて一心にお願いさせて頂いておるが、果たして自分が一心というて願っておる、どうぞどうぞと言うて願っておるが、果たして是は神様へすぐにおかげが受けられると言うほどしの一心に繋がっておるかどうかと言う事を、先ず検討して見る。誰が何と言うても動かない。迷わない動じないしかもその一心がです、絶対信ねいわゆる。ですからはは自分はまだ絶対信ではないなと思う時に不安がある。
 そこでその不安が取れてしまう所まで信心せなとこう言う。そこで求められるのが修行であります。不思議です皆さん一つの事を一心にお願いをする。願うても願うても所謂自分のこの一心というものがです本当の一心でない。その証拠には不安がある。心配がある先程の秋山誠治君の話のごと、成程兄さんが頼んでくれるからですそれは頼みたい気持ちもあるかもしれんけれども、神様へ一心を貫こうと決心した。
 それでも矢張り不安である。そこから子供ながらも、断食しようという様な心が生まれてきた。出掛けに、まぁいっちょの兄ちゃんの光治君が「誠治、しゃっち出来にゃならんち言うことはなかよ」ち言うて、「俺を見てみれ。俺も出来なかったばってん、出来じゃったことがおかげになっとろうが」ち言うちから、兄ちゃんが誠治君の出掛けに言うげな。「だから僕はその腹は出来とる」とこう言うた。
 もう出来る出来ないは、いうならばもう問題でない程しの心が子供ながら出来ておる。それは言わば一生懸命の修行。神様へ向ける言うならば不安である。その不安である所の足りない所を修行に打ち込む。断食修行させて頂くそこから兄ちゃんに言われる迄もない、ままよという心が生まれて来る。そこに一心という言わば一心と同じ心が生まれる。おかげで見事合格のおかげを頂いたという事になった。
 ですからお互いのです一心を立つる。それでも先生にお願いしとるけん良かろうてんなんてんちいう様なことでは出来んて。親先生にお願いするでも、やはり一心に頼まにゃ出来ん。親先生にお願いしたら、もう安心が生まれる程一心でなければいけん。だからまあ言うならば親先生に御取次願う前にです、一修行をせにゃいかんちゅう事にもなるのです。親先生が右と仰ったから右、左と仰ったから左と決めるぞという様なものが生まれて来る。先生はどげん言いなさったですか。「右」。
 「そうですか、私は左と思いよった」ち言う様な事ではいけない。親先生がそう仰ったつなら、それ一本で進むその事に一心をかける。それでも不安。不安ならば一生懸命にお参りをしてこなけりゃ。一生懸命に修行をしてみる。そこからままよという安心が生まれて来る。安心というのはおかげが頂けるという安心じゃない。ままよという心なんである。そこから言わば一心が立ったと言う事になるのじゃないでしょうか。
 今日の御教えは、様々に説いて下さってある、それをまた様々な角度からね、皆さんに聞いて頂いた訳です。一心に頼んでいるようであって、一心でない事が多いのです。だから愈々一心を貫かせて頂くための工夫というか、修行というかそれがなされて行かなければならなりません。そこからです親鸞が仰っておられる、「良き人の仰せを蒙りて、信ずる他に別に委細なきなり」とまで言えれるところまで、良き人に対するところの信頼心が出来たら、後はおかげばっかりだとこう思います。
 信ずる他に別に委細がないという。他に秘訣はないという程しに良き人に対するところの信頼心を作って行くというところから、どんな場合でも親先生任せ、皆さんの場合、私が、良き人としてのおかげを頂いて行かねばならんと同時に、皆さんも、良き人としての頂き方が出来れるおかげ。そこから本当に信じて疑わない。どの様な事であっても、良き人の仰せを蒙って信ずるより他にはない。
 それがするっとこう信ずる力というものが生まれて来る。そこには一心と同じ働きが生まれてきていつの場合でも、神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられる。またの言葉に、この方の道は傘一本で開ける道とこう仰る。この方の道はその一心に縋る。一心に良き人の言葉を信じれるということ。いわゆる傘ということは安心ということ。この安心が生まれた限り、もうどの様な道でも開けるおかげが受けられるというのですね。
   どうぞ。